ムットン調査団108 駿河台下交差点封鎖出来ません

各位

 

このタイトルで「レインボーブリッジ封鎖できません」という、織田裕二の名セリフを連想する人はどのくらい、いるのかな?

さて、今回は私が小学校の4年生の頃の話をします。

1968年に神田お茶の水カルチェラタン闘争という学生運動がおこります。これは神田駿河台一帯を学生の解放区にしようとする学生運動で明治、中央、日大が参加していたそうです。専修は不参加です。明治と中央の学生がそれぞれの大学から机を持ち出し明大通り二か所をバリケード封鎖し、それを機動隊が突破するなどの大騒動です。このカルチェラタン闘争がその後の70年安保闘争へとつながっていきます。

1970年は日本国内では70年安保闘争と言って世の中が騒然としていた年でした。

1960年に締結した日米安全保障条約が10年間の期限を迎え、自動延長するに当たり、これを阻止して条約破棄を通告させようとする運動であり、具体的には大規模デモ運動であったが、デモは暴徒化して機動隊との激しい衝突になっていったのです。

と、まあ難しい時代背景は頭に入りましたかな。本題はここからです。

私は当時、神田駅方面に住んでおり、小学生の私は安保闘争とは無縁であったし、学生街からも少し距離があり、いたって平穏な日々を過ごしていました。

また、4年生ともなると一人で動く行動範囲も上野、日本橋、銀座、神保町、九段下あたりまで広がっており、どこでも行けるような年齢になっていた。さらに須田町交差点は都電の一大発着場になっており東西南北どこにでも行けました。

その日は徒歩で神保町方面に出かけました。当時、駿河台下交差点付近でよく立て看板が立てられており内容は「本日、午後〇〇時学生によるデモが予定されています」と書かれてありました。この看板は頻繁に立てられていました。

そうです大規模な、学生運動の最後の時代だったんです。もちろん私が大学に入った頃も私の大学の校内は常に立て看板は立っていたし、ストライキで試験が中止になることなどは度々ありましたが、でも学生たちの実力行動まではありませんでした。たまにヘルメットをかぶった学生の演説はありましたし、駿河台の明治大学でも建て替えるまでは一年中、学生の書いた立て看板が出ていました。

いずれにしても私が小学校4年生の時の騒然とした状況は、1~2年以内に収まっていったんだと思います。

当時、子供だった私は世の中の動きは知りません、神保町方面に足を延ばした時は、またデモがあるんだというくらいの感じで気にもしていませんでした。

まあ、その日は何か目的があって神保町方面に出かけたんだと思います。本屋に入って時間をつぶした後、神保町を超えて足を延ばしていました。どこまで行ったのかは覚えていません。

そして二時間くらいして家に帰るために、いつもどおり歩いていました。靖国通りで神保町付近まで戻ると街の様相が一変していたんです。

息を呑む光景だったんです。街は今まで見たこともない景色を私に見せたんです。

歩道には人が沢山いて、拡声器を通した機動隊と学生の怒鳴り声、車道に普通の車はなく多数の機動隊の車とジュラルミンの楯を持った機動隊員。あたりは白い煙に覆われていて目がめちゃくちゃ痛いんです、子供心に大変なことが起こったことだけは、わかりました。

何が起こっているのか最初はわかりませんでしたが、いつも出ていたあの立て看板、{今日学生のデモが予定されています}これだな、くらいの想像はつきます。

急いで家に帰ろうと神保町から駿河台下方面に急ぎますが歩道は人がいっぱいです。その人込みの中をかき分けて、やっと駿河台下交差点付近まで来ると、学生と機動隊の大規模衝突の最中で多くの群衆も見ています。

ここが主戦場といった感じです。これはデモじゃないです、完全に学生の長い角材と機動隊のジュラルミンの楯と棒によるたたき合いです。そこに投石がガンガンと降り注いできます。石も歩道から、はがした石ですから大きいんです。

学生によるの火炎瓶はなかったと思います。機動隊の放水はどうだったのか、記憶にはありません。

そこまで行くと私は、とにかく目が痛くて涙がとまりません。はい催涙弾を機動隊がバンバン発射していたので、とにかく涙がとまりません。

催涙弾の煙が充満する中、それでも家に帰らなければと必死の私は主戦場となっている駿河台下交差点に突入するしかないので、群衆をかき分け前に出ると、近くにいる大人が「ぼうや、危ないからそっちに行っては駄目だ早く家に帰りなさい」と言われ、警官にも来ないようにと言われ、帰り道を止められしまい、小学生の私は、結構あせっていました。

早く家に帰れと言ったって、そこを通らないと帰れません。

家に帰る作戦を考えるため、神保町の交差点まで一旦、後退します。

ここで私は白山通りを水道橋方面に向かい駿河台下をよけることにしたんですが、この方角を選んだのは間違いでした。

ここで竹橋方面に曲がれば多分、何もなかったかもしれません。

白山通りの歩道には、頭などから血を流している多くの学生が横たわっており、その手当をしている学生などで埋め尽くされており、さながら野戦病院の様相を呈していました。

女学生も看護のためにたくさんいました。

小学生の私はその光景は結構、恐ろしかったですね。また歩道に使われていたコンクリートのブロックは学生が投石に使うために、かなりはがされていました。

大通りから、小道にはいると突然30人くらいの学生が猛ダッシュで飛び出してきてあっと言う間に通りすぎます、そのすぐ後を機動隊数十人がやはり全力で追っかけてきます。

そんな、小集団の猛ダッシュの鬼ごっこをそこらじゅうでやってるんです、自分よりでかい大人が必死で集団で走ってきますから、これも怖かったですね。巻き込まれたら怪我をしますよ。

靖国通りを神保町の交差点で左に曲がり白山通りに入ってから適当な道を右に曲がり須田町方面を目指すに事にしました。このルートは結構危ないルートでした。明治や日大はもちろん、まだ多摩に移転する前の中央もあり、街全体が学生の殺気にあふれていました。

駿河台下交差点のような大規模衝突ではないんですが、面全体で学生と機動隊がぶつかっている,ど真ん中を抜けていくという事になってしまい、いやはやサバイバルゲームでした。

学生集団が来るのをよけながら小道を進みますが、家に帰るにはどうしても明大通りのような大通りも越さなくてはなりません。越すに越されぬ大井川と言ったところでしょうか。

大人や警察官に見つかると、また危ないから来ては駄目だと押し戻されて通りを通過できなくなります。状況を見定めて信号のない場所で一気に明大通りを横切ます。

明大通りを越しても、まだ中央や日大の大学群があるので油断は出来ません。

ゲリラのように学生集団と機動隊がでてきますから。

その一帯を抜けて何とか小川町までたどり着くと、やっと安全地帯です。

いやー子供だったので怖かったですね。まさにリアル・サバゲーです。

大規模な衝突に巻き込まれたのは、この1回だけでしたが記憶に残る学生運動でした。

70年安保闘争を最後に大規模な学生運動は姿を消していったので、私も参加者ではないけれど、最後の大規模学生運動の一旦をこの目で見た、歴史の証人かもしれません。

あの当時の大学生は、今一番若い人でも70過ぎになっています

立て看板だらけだった明治もリバティータワーなどに変わり、今では女子の人気N01の大学になっています。

我々の時代のバンカラ気質だった早稲田、明治、中央、法政は今の若い高校生には慶応、立教、青山と同じイメージなんでしょうか。

時代とともに学校は変わっていき、若い人の心も変わっていく。

変わらないのは時代に取り残されていく我々だけなのかもしれません。

昔ヒットした「いちご白書をもう一度」を聞くと、とても懐かしい気持ちになります。

この歌の中に♪僕は無精ひげと髪を伸ばして、学生集会へも時々出かけた♪というセリフがあります。小学生の時の駿河台の体験が瞼に焼き付いているので、その時代を生きたような錯覚を覚えるのかもしれません。昔のノスタルジーに浸る感覚ですかね。

団長が過去は振り返るな、前を向いて歩けと言っています。

そうでした団長はまめに髪を黒く染めて時代の最先端イブクイックDXにも取り組んでいました、Mの旦那にはかないません。

この駿河台突破は小学生の私にとってはディズニーランドのジャングルクルーズなんかよりずっとスリル満点の危険な冒険でした。

でも、大人になった私にはもっと危険な冒険が次から次へとあるなんて、この頃は思いもしませんでした。みなさんの人生が危険な冒険などと無縁であることを願います。