ムットン調査団398、歌舞伎町、コマ劇業前の池

各位 

かつて大学スポーツでスタンドを超満員させるものはラグビーの早明戦、国立劇場を超満員にして、純粋にラグビーの試合そのもの勝ち負けにこだわった伝統の一戦でこの二校で優勝を争っていました。

そして、もう一つが早慶戦です。

早慶戦という言葉はもう死語になりつつあるかもしれません。一般的には神宮球場で行われる六大学野球の中の早稲田対慶應の試合の事です。

最近の早慶戦は観客数2万5千人くらいだそうです。

私が大学生の頃は5万人で球場は満員でした。

早慶戦はプラチナチケットでクラスで割り当てられた一人一枚のチケットをまず確保します。しかし、各サークルは多くの女子大生が入っていますので、その分もチケットを確保しなくてはなりません。

各サークルにとって春と秋の早慶戦は年中行事として定着していますので、チケット確保は毎回、大変でした。

野球の内容はどうでもいいんです、とにかく応援合戦が楽しみでいくようなものです。

早稲田の方は紙で作った角帽が渡されます、慶應は紙で作った三角帽です。

試合が終わっても手に持っている帽子で早稲田なのか慶應なのか一目でわかります。

早慶戦は言わばお祭りなんです、優勝がかかってない4位、5位の争いであっても早慶戦はスタンドが常に超満員になったんです。

試合日程も早慶戦が必ず最後のカードとして組まれており、NHKもなぜか未だに早慶戦を放映しています。

私の場合は早実だったので高校1年の時に学年全員で早慶戦を見る事になっていましたから早慶戦観戦デビューは早かったということです。

毎年、春と秋の早慶戦を見ていると慶應の校歌から、応援歌、若き血まで覚えてしまいます。

早慶戦の説明はもうわかったよって、はいはい。

本題に入っていきます。早慶戦が終わると慶應の学生は銀座方面に流れていきます。

早稲田の学生は新宿歌舞伎町へと流れ込んでいきます。早慶戦が終わった後の歌舞伎町は紙で出来た早稲田の角帽を持った学生で溢れます。

早稲田の学生は勝とうが負けようが関係なく歌舞伎町に行きます。では、他の大学はどうだったのか。わかっているのは明治大学です。明治の学生は優勝するとやはり歌舞伎町に流れ込んでくるのです。しかも、早慶戦は必ずリーグ戦の最後に組まれているので、早慶戦終了をもって明治の優勝を確定させるので、同じ日に早稲田の学生と明治の学生が歌舞伎町に集まってくるわけです。

歌舞伎町のど真ん中、コマ劇場の前(現在はトー横広場)では一次会が終わり酒に酔った早稲田の学生がそこに集まり校歌を歌ったりと、早稲田の自由広場の様相を呈してきます。

しかし、明治が優勝した時はそこに酔った明治の学生も流れ込んできて、そこらじゅうで小競り合いなどが起こり、かなりやばい状況になっていきます。

コマ劇場前広場は早稲田と明治の学生で埋め尽くされます。

 

すると、これまた、どこからか大量の警察官が現れてロープで早稲田と明治を分けて間に警察官が入ります。

明治の学生が大合唱をします「早稲田の校歌をもじって♪バカだ、バカだ、バカだ、バカだ♪」早稲田をバカにする定番の歌です。

慶應の場合は応援歌をもじって♪低能、低能、三田の色魔、低能♪

各大学ごとに、定番の野次り方があります。

では明治大学を野次る時は明治製菓のチィコレートのCMをもじって「♪ちょっと足りない、ちょっと足りない、足りないのは明治♪」とやり返します。

このちょっと足りないの歌がが明治の学生を大いに刺激します、明治の学生の大半は校風の同じ早稲田を大体、受けていますから、あと少しで涙を呑んで明治にいき、早稲田の学生からこの大合唱をされると怒りに火がつきます。

警官がいるのにお互いのエネルギーがそこを突破して、殴り合いになったりします。私は後ろの方の安全地帯でサークルの連中と一緒に事の成り行きをみていたら、何とビール瓶が明治の側から結構投げ込まれました、うちのサークルは無事でしたが近くの学生であたった者もいて殺気立ってましたね。

これ以上いると危ないのでうちらは、コマ劇場の前から撤退して解散しました。

明治が優勝した時の歌舞伎町がいつも、揉めていたのかは、わかりません。

では、明治がいない通常の時はどうなっているのかと言いますと、早稲田の学生だけでコマ劇場前の広場は埋め尽くされます。そして先ほど書いたように大勢で校歌や応援歌を肩を組んで歌ったり、かなり酔った奴が電柱に上り電灯を割る奴などもいます。

この広場の真ん中には人工の噴水がある池があって、サークルごとに仲間を池に放り込むんです。でもこれはサークルごとに決まりがあって、放り込まれた学生は大体の場合着替えを持っているんです。

忘れもしません、大学1年の秋の早慶戦終了後、歌舞伎町で飲んだあと次々に池に落とされる学生を見ていた時です、私の体がふわっと浮いて、サークルのみんなに担がれそのまま池に投げられました。いやーまいりました。まずメガネのレンズが割れたこと。そもそも私のサークルは池に落とさないから私は着替えなんか持ってなかったんです。

先輩が私の仲間達にそっと大〇を池に落とせと命令したそうです、みんなその場の、のりであっという間に私は池の中です。

全身ずぶぬれのまま、新宿駅から神田駅まで中央線に乗って家に帰りました。みんなジロジロ見て近づかないですよ、私も座ったら椅子が濡れるから立ったままですが、私のまわりは水たまり、髪から靴まで濡れてますからね。水もしたたる良い男としておきますかね。

ムットン調査団397、同級生の子供

各位

ラインがスマホに入ってから、やたらにグループラインが出来ました。

私もたくさんのグループラインに入っていますが、その中の一つに小学校の同級生のグループラインがあります。

グループラインが出来てからは年に一回程度の同窓会をやっており、同窓会が開催される前後の期間はラインも盛り上がります。特に同窓会が終わった後は2週間くらいは多くのひとが書き込みをします。

そして、その期間が終わるとライン上のやりとりがパタリと止まります。

でもグループラインは完全には止まらず、ぽつりぽつりと投稿があります。

たまに誰かがこんなところに行ってきたとか、おじさんバンドをしているので見に来て下さいなどのラインがきます。

私の小学生の時は一クラス25人で学年は2クラスでしたので学年の人数は合計50人でした。

このうち現在約6割の人がグループラインに登録しています。

小学校のグループラインが出来たのは約3年前。

小学校の同窓会はグループラインが出来るまでは卒業してから2~3回しか開かれていなかったと思います。

一昨年、久しぶりに同窓会がを開かれた時にすでに2人亡くなっていることを知りました。昨年は秋に1人急に亡くなっています。この時はグループラインですぐにみんなに知らせが届きました。

まあ、この歳になると同級生が少しづつ減っていくことは仕方ありません。

前にも書きましたが今年三月末には高校、大学で7年間友達だった奴を癌で亡くしました。

話を小学校のグループラインに戻します。

先週、そのグループラインにAからの書き込みがありました。

内容は自分の息子が突然亡くなり、びっくりしたことや葬儀の日程などが書いてありました。

これはびっくりしました。

私はAとは特に親しかったわけではありません。小学校は6年間一緒でしたがクラスは別でした。中学は3年間一緒で中学3年の時は同じクラスでした。

AはMARCHの付属高校に入りそのまま、大学へ。

なので中学を卒業してからは同窓会で数回会っただけです。

子供が亡くなったという事に対しては、さぞかし辛いだろうと思います。

自分が考える中で子供が親より先に亡くなる悲しみは最もつらく悲しいものだと思います。

ラインにはみんなと同じお悔やみの言葉が書き込みました。

それ以上の言葉は書けませんでした。

自分の人生は自分が亡くなるその日まで続きます。

どんなに辛いことがあっても、自分の人生が続いている限りは歩いていかなければなりません。

自分の身に起きたらこんな冷静なことを言っていられないと思います。

ありきたりですが、一日一日を大切にしなければと改めて思いました。

今回は以上です。

ムットン調査団396、大妻女子大加賀寮

各位

大妻女子大学の寮が新宿区の市ヶ谷加賀に昔ありました。今なら大江戸線の牛込柳町がちかいんでしょうが、当時は最寄り駅は市ヶ谷駅だけです。

市ヶ谷の駅から外濠の橋を渡り大通りも渡りルノアールの横の急坂を上がっていくと、やがて大日本印刷村になります。そこらじゅう大日本印刷の工場だったり倉庫だったり、15分から20分くらい歩くと大妻加賀寮に着きます。

大妻に入学する生徒のために大学が直営で設けた寮です。

あの坂道と大日本印刷村、何回歩いたんだろう

前方からは、男子大学生が一人、また一人と坂を下りてきます。私が坂を上ってから寮に着くまでに沢山の男子大学生とすれ違います。

私と(仮称)松山恵子も行きは二人で歩いて行き、私の前にも、後ろにも続々とカップルが歩いています。寮の前で別れを惜しむ恋人たち。

寮には門限があったので、門限時間前は大渋滞となります。

松山さんを見送ったあと市ヶ谷駅に帰る時に今度は私が一人で歩き、次々とカップルとすれ違うわけです。途中くらいからは、門限に間に合わないカップルが二人して走ってます。

門限を破ると何回か外出が禁止だったかな。

恵ちゃんと出会ったのは大妻との合コン。付き合っている彼女のことは黙っていました。

合コン当時、私が20歳で当時付き合っている彼女との心の溝を埋めたくてもがいていた時です。恵ちゃんは群馬から上京してきたばかりで18歳でした。

5対5くらいの合コンだったと思います、最初に見た時から恵ちゃんしかいないだろうと思いました。・・・彼女がいるのに何をしてるんだって、その通りです

店を出た時に恵ちゃんが寒がっていたので、来ていたスタジアムジャンパーを脱いで「これ着ていけよ」と渡しました。この時ジャンパー貸したら返してもらう時にまた会えるっていやらしい打算が働いていたと思います。

当然、後日ジャンパーを返したいのでと連絡が来ました。

二人で会って意気投合して楽しかった。

それまでは他の女友達には自分に付き合っている女性がいると話していたんですが、恵ちゃんにはなぜだか言えなかった。会っていても、常に罪悪感のようなものがあった。

この時の合コンで私の他に、もう一組カップルが出来たのでよく四人でも会ったりしてたなあ、そいつも確か彼女いたと思ったなあ。

恵ちゃんには高校の時からの付き合っていた彼がいて、大学に入学するため二人とも東京にきたんだけど、私のせいでその彼とは別れました。

私が悪いのはわかっています。だから私は惠ちゃんには一切、手をださなかったんです。

恵ちゃんは俺と付き合い始めたので、「彼が子供に見える、もう彼のもとには戻れない」と言っていました

この頃の数年の差って本当に大きいんですよ、俺も「あー何年か前の、まだガキだった俺を見ているようだ」と思った、彼はもがいても、もう駄目だし彼女はこの先彼のもとへは戻れないだろうということだけはわかった。

そんな清らか?な交際が続いているある日、惠ちゃんはある決断をしたんです。

「今日は外泊の許可を取ってきたので、帰りません」

俺がこの純粋な女性をここまで追い込んでしまったんだ。

据え膳食わぬは男の恥と言いますが、まさにその状態です。

でも、私の中では当時、据え膳くうは男の恥だと姉に言われており、ここで彼女とするのはまさに据え膳食うになるわけです。

私の姉は結構自分で遊んでたくせに、「確か宇崎竜童が据え膳食うは男の恥だと言っていたが、私もそう思う。だからこの言葉は忘れずに覚えておけ」と言ったんです。

なぜか姉の言葉がその後ずっと俺の行動を縛っていたような気がする。

友達からも、よく言われました。「なんでお前ガンガンとやらないんだ。周りにいい女たくさんいて、みんな友達なんて馬鹿みたいだと」

その時の私の台詞も覚えています「俺は愛のない〇〇〇はしないんだ」と青いことを言っていました。

もう惠ちゃんに言うしかありません。

惠ちゃんには「俺は惠ちゃんが好きでも、好きだとは言えないんだ」と言いました。

高田馬場駅の近くに白ゆりという24時間喫茶があり、そこで朝までいました。

惠ちゃんは、覚悟を決めてきていたので、それでも行こうと言ってきましたが、「ごめん、こんなくずみたいな俺が初めての男なんて絶対駄目だ。君なら、可愛いし、素直だし、明るいしきっと俺よりもっといい男が必ず現れるから。もう別れよう」

彼女は泣きながら「〇〇さんに彼女がいてもかまいません、〇〇さんたち二人がどうなるのかわかるまで、会っていたい、お願いします」何度もお願いされて、俺の心もぐらっときたけど。

ここまで言わせちゃ駄目だよね、そんな俺に都合のいい話は、この先さらに彼女を苦しめることになるから、「駄目だ惠ちゃん、もう別れよう」

こんな、いい女性を傷つけて泣かせる俺は最低だよね

本当に素直で良い女性でした。とっくに結婚してると思うけどこの人の旦那さんは幸せ者だと思います。

自分で蒔いた種だったけど、苦い思い出になりました。

大妻加賀寮は今もカップル達が歩いているんだろうか。

 

 

 

ムットン調査団395、熱中症

各位

連日の暑さで熱中症になっている人が続出しているとニュースになっています。

みなさんは大丈夫ですか。

私は大丈夫ですが熱中症と思われる人を今週二人みました。

一人は今週始め朝の出勤時の地下鉄の降り口の横の幅6メートルくらいの区道に若い女性がうずくまって座っていました。

20メートルくらい先で見えたので状況によっては駅の職員に報告しようかなと思っていた時です。

道の反対側にある自販機で水のペットボトルを買った若い女性が、座り込んでいる女性の元にいき何か話しかけています。座り込んでいる女性が手を振っています、大丈夫と言っているんでしょうか、私の場所からは声まで聞こえません。

私がそのしゃがみこんでいる女性の横まで来た時には、水のペットボトルを買った女性がその水のキャップをはずして飲ませていました。

介抱している感じだったので私はそのまま地下鉄の駅へと入っていきました。

若い女性が若い女性を助けている光景を見てまだまだ、日本捨てたもんじゃないと思いました。

私は地下鉄に乗りながら、しゃがみこんでいた女性は地下鉄の外の区道にいたわけだから、駅員に言ったら来るのかなあ、もしかするとこないかも、なんて考えていました。

私が駅員に何かを通報したことは何回かあります。最近では2~3年前に休みの日の朝急いでいる時です。早朝の池袋駅でかなり早い時間だったので歩いている人もまばらでした。乗り換えをするために通路を歩いている時に正座してあやまっている少年を若者数人が殴っていました。

私にはとても止める力はないので急いで改札に向かいました。

改札の駅員に状況を伝えすぐに警察を呼ぶか、ほかの駅員と一緒に止めるように言いました。とにかく早く対応してくれとお願いしました。駅員もすぐに対応しますと言ってくれました。

多分すぐに対処してくれたと思います、私はそのまま改札の中に入って電車に乗ったので、その後、少年がどうなったかは見ていません。

話がそれました、熱中症の話でした。

昨日、私の職場の窓口の待合席に高齢の女性が頭を膝につけた前かがみのまま動かないのを発見しました。

暑くて体調をくずし、役所の建物があったので涼みに駆け込んだのでしょう。

でもたどり着くのが精一杯で動けなくなったと思われます。

すぐに庶務に連絡。ここからうちの職場の対応が早かったです。

まず冷たいペットボトル4本くらい持ってきた女性職員が1本は飲ませ、残り3本は首や体を冷やすのに使っていました。

男性職員は扇風機を持ってきてその女性に風邪をあてました。

その後、女性職員が体調を聞いたり救急車を呼ぶかどうかの判断などをしていました。

少し元気になった女性はその場所で30分ほど休んでまた出ていきました。

出る前に職員がまだ休んでいてはどうか、とか出るならタクシーを呼ぶとかのやり取りがありましたが、大丈夫と言うことで歩いて出ていきました。

高齢で髪はグレイですが背が高く、姿勢もよくて服装も青を基調に花柄の素敵なワンピースで、なんとハイヒールを履いていました。

昔はすげー恰好いい女性だったんだろうなあなんて思いなが女性を見ていました。何度もお世話になったお礼を言って帽子と日傘をさして外にでていきました。

そんな訳で今週、熱中症になった人を間近で二人みました。

熱中症は高齢者だけでなく若い人もなるのを見たので誰でもなるんだと改めて思いました。みなさんも自分は大丈夫と思っていてもなるかもしれないので用心してください。

今年の夏は40度を超える酷暑日が何度もくると思われます。

私が子供の頃、東京の夏は暑くても30度でした。それが今では10度も上がるなんて、やはり異常気象です。

でもこの暑い夏と寒い冬、どちらが嫌ですか聞かれると私は寒い冬の方が嫌かな。

何だろう、夏は子供の頃からの夏休みがイメージされてて家族旅行などワクワクすることが一杯あったので、夏がくると何もなくても少しワクワクします。

酷暑に負けずにワクワクする夏を乗り切りたいと思います。

 

ムットン調査団394、外郭団体の監査

各位

義父の突然の危篤の知らせと死亡の前日、私は昨年に続き区の外郭団体の監査をしていた。

義父の死亡がもう一日早かったら監査に行けなかったかもしれない。

さてこの監査、私が区に在任中、あて職としていくつもの外郭団体の監事をしていた時から続いている。他の外郭団体は退職とともに団体の監事を辞められたのだが、一つだけどうしても続けて欲しいと頼まれ根負けして監事を一年だけ引き受けることにした。

昨年も貴重な私の休みの日に往復の交通費は自腹で報酬は無し。

往復の移動2時間と監査の時間3時間で休みが、まる1日潰れてしまい、交通費分だけ赤字になってしまう。もう一人の監事は税理士なのでしっかりと報酬が支払われる。

そんな訳で昨年、かんべんしてくれと思っていたら、昨年の監査の時に何ともう1年延長してくれと頼まれた。

冗談じゃない、区を退職した翌年度の監事を引き受けるのも嫌だったのにさらに二年後までなんてと強く断ったのですが、事務局長と担当の職員に内情を聞かされ二人の女性に懇願されたので、最後は引き受けることにしました。

私に泣き落としで頼んできた事務局長は今年の4月に人事異動で区の課長に戻ってしまいました。

3月の内示で異動を知ったので、やれやれと思いました。

さすがに彼女も私に無理やり監事を頼んだ手前、4月以降の外郭団体の監査日程については全部彼女が私に連絡をしてきました。

監査の当日も外郭団体の事務所で私を待っていました。丁寧なお詫びの挨拶もあったので、まあこれでよしとします。

当日の監査を無事に終わり、これで私の区に係わる仕事は全て終了しました。

後は8月の総会に出席するか欠席するかだけです。

それにしても前事務局長は団体の会長にすごく気に入られていたので絶対に人事異動はないと思っていたのに以外でした。

当の本人も異動はないと思っていたみたいです。

でも異動になった。そこは区長をはじめ現執行体制の思惑が働いたのでしょう。

団体の会長も多分区長に異動させないで欲しいと頼んでいたと推測します。

逆に言えば、だからこそ異動させたのかもしれませんね。

管理職の異動は色々と思惑やらが交錯して政治的になったりします。

そういえば私の二十数年前の異動も地域の重鎮がからんでいました・

私が初めて管理職になったのは出張所長でした、出張所長二年目に連合会長が変わり、その会長が連合町会協議会会長になり私と二人三脚で色々なことを乗り切ってきました。

所長は2年で変わるのが当時の暗黙の了解事項でしたが、会長が区長の所に直談判に行き私をもう一年所長でいさせて欲しいと頼み込んできました。

区長との話し合いの後に会長はすぐに私の所にきて満面の笑みで「やったよ〇〇さん、所長をもう一年やってもらう確約を取ってきたよ」と私に話してくれました。

こうして当時の私は連合町会長から異動なしの内示をもらいました。

私が出張所長に就任とともに地域活性化事業が始まり各所に1千万円が与えられ、何につかっても良いという事業でした。

使い道自由の1千万円が連合町会に渡されました、私の所でも実行委員会が作られ毎週夜遅くまで議論がかわされました。

私のいた地域の委員会では当初、こんなのは無駄使いだから一銭も使わずに全額、区に戻そうという意見と何かをすべきだという意見が対立して収集がつかない状況でした。

当時の活性化委員長、二人の副委員長と連合町会長と私でこの難局を乗り越えました。

活性化の委員長は後に区議会議員になり議会のなかでも色々お世話になりました。

そういえば、この時出張所の活性化の担当の職員がやる気がないので私は担当をその年に区に入庁した新人に変えたんです。

その新人が今では総務課長として区の中枢にいるんですから私も歳をとります。

また、当時の活性化委員会の主要メンバーの人達が私が出張所を出た後も私の名前をとって〇〇会という会を立ち上げて今でも続いています。

当時の連合町会長もまだ元気で毎回参加してくれています。

出張所長という一つの管理職ポストでしたが様々な人達との交流をへて今の自分があると思っています。

この地域の人達には本当にお世話になり感謝しています。

またそのうち、地域でもめた江戸開府400年事業についても書いてみます。

今回も話がどんどん変わってしまいました。

んじゃ。

ムットン調査団393、おくりびと

各位

義父の葬儀が水曜、木曜に行われました。

そんな中で今回、映画おくりびとでも有名になった納棺師の仕事を間近でじっくりと見ました。

湯灌の儀では全身をくまなく洗い、髪の毛もシャンプーでよく洗いそのあとでリンスもして実に気持ちよさそうでした。

私の妻やその弟、義母などみんな湯灌の儀をやってよかったと感動していました。私もほーすごいなと感心しました。

打ち合わせの時には儀母は湯灌の儀なんて、高いしもったいないからやらなくていいと言っていたんですが、子供達がやると押し切ってやったんです。

結果的には儀母もやってよかったと納得していました。

妻は「義父もすごく気持ちよさそうだったので自分の時もやってほしい」と娘に言っていました、私は「確かにすごく気持ちよさそうだったけど死んでいる本人はそんなのわからないだろうから私の時はやらなくていいからね」と言っておきました。

その後でメイクをしたり爪を切ったりと色々して、旅支度をします。

三途の川を渡る時の渡し賃としての六文銭を各自一枚ずつ袋にいれたりと儀式が続きました。六文銭が出てくると、おっ真田幸村じゃんと思います。

余談ですが私は戦国時代で一番好きな武将は子供の頃から真田幸村だったので、真田家の家紋の六文銭は「合戦で命を落とすことなど恐れていない、いつでも死ぬ覚悟は出来ている」という意味合なので、真田の家紋の六文銭はかっこいいとずっと思っていました。

葬儀の話に戻りますがお通夜は六時からですが親族は三時半までに集合です。

葬儀会場は豊洲なので家を車で午後1時過ぎに出たのですが着いた時間はギリギリでした。

翌日の告別式はなんと朝の九時半からです。普通、告別式は昼の12時からが多く、早くても11時とかだったと思います。

家族葬なので出席者が限られていたので、その時間でもしかたないと判断しました。

火葬場の関係でその時間になってしまったんです。今は火葬場がどこも混んでいて、死んでから一週間くらい待たされるのも普通にあります。

なるべく早く葬儀をしたいという家族の希望で一番早く火葬できる場所が品川区の桐ケ谷斎場だけでした、桐ケ谷斎場で火葬の時間と豊洲の斎場からの時間を逆算して朝の九時半という時間になりました。

家を車で朝の7時に出ましたが途中渋滞もあり、またもギリギリで間に合いました。

家を出て、途中で私はどうしてもトイレに行きたくなったので勝手知ったる元区役所の前に車を止めて用をたしました。

時刻は8時40分頃だったので、もうみんな朝の出勤時刻は過ぎていたので知った顔はいませんでした、玄関を出て車に乗る手前でX課長に出会いました。

私も急いでいたので30秒くらいの会話で別れました。

X課長に会うのは退職してから初めてなので1年3か月ぶりでした。

話がそれていきますが、このX課長こそ、5~6年前はX主査ですが、私がこのムットン調査団を書き始めるきっかけになった人物です。

その後X課長はムットン調査団に度々登場しました。一番面白かったのはX課長が団長に対してかみつく文章を度々書いていたんですが、K課長がX主査に「あまりM部長(団長)に逆らわないほうがいいよ」と真面目に忠告してくれたんです。

これでX主査がビビッて私に「もうM部長にたてつくような文章はやめたほうが良いと思います」と言ってきました。

私は「大丈夫、K課長には冗談だと言っておくから」と言いました。K課長にはあの団長にたてつくX主査は冗談で私が書いているので実際にたてついているのではないので安心してくださいと言いました。あの冗談だらけの文章をまともに受け取るK課長って超真面目なんですね。

団長のM部長は冗談だと知っていたので特に何もしなくても大丈夫でした。

そんなXさんも今は立派な課長ですから。

区生え抜きの管理職が厳しいと言われている今の我が区で、X課長の今後の活躍に期待しています。

では、今日はこのへんで。

ムットン調査団392、妻の父親

各位

昨日の朝、妻の父親が急に危篤だとの連絡があり家族で病院に急いだのですが間に合いませんでした。

病院到着後は親しい親族が集まるまで待ち、その後葬儀業者を呼んで欲しいと病院に言われ、病院と提携している葬儀業者に連絡、30分ほどで葬儀業者が到着、義父の遺体とともに葬儀業者の会館に移動

その後の葬儀業者との打ち合わせが3~4時間かかり、みんなくたくたです。

葬儀の段取りを色々と決めていきましたが、結構な価格になりました。

帰る時に私が葬儀業者に「ここの料金は他の葬儀業者に比べて高くないですか」と聞いたら、葬儀業者が「確かに他と比べたら高いと思います、ただうちは丁寧に行っておりその分高くなっている等々」の説明をうけました。

まあもう決めたことなので仕方ありません。

義父はリハビリ病院に入院しており体も弱っていましたが、まだ死ぬなんて誰も思っていませんでした。

いきなり危篤の連絡を受けあわてて病院に行き、亡くなっていたので、病院からは葬儀業者に連絡して遺体を引き取ってくださいと言われる。

お寺が決まっている場合や、葬儀業者を前もって決めている場合などはすぐに連絡できるでしょうか、そうでない場合は病院と提携している葬儀業者に頼むしかありません。

その場で出来ることはネットでその業者が大手であることを確認したくらいです。

平日だったら区役所に電話して葬儀場や葬儀業者の斡旋などしてもらおうと思うのですが土曜日でしたので出来ませんでした。

ネットで業者を探すには時間がありません、病院はなるべく早くお願いしますと言われていたので。

本当は事前に葬儀業者について調べておくのが良いのですが、まだ死ぬなんて思ってない時に葬儀業者を探すというのも何か変な気がして。

今回頼んだ大手の葬儀業者ですが事前に会員になり10万くらい積み立てておくと、葬儀費用は何十万も安くなるんです。

備えあれば憂いなしなんですかねえ。

今回はあの状態では、ああするしかなかったと思います。

打ち合わせが終わり、みんな朝から何も食べていなかったので食事をしてから帰りました。

家に戻ったのが夜9時くらいでした。

そんな訳で今日はこの辺で。