ムットン調査団186、悩んだ高校受験

各位

高校受験で全ての入学試験が終わった後に私は人生で初めて真剣に悩むことになりました。

私が高校受験で試験を受けた高校は早慶付属と都立高校です。

具体的には慶応日吉、慶応志木、早稲田高等学院、早稲田実業、と都立11群です。

厳密に言うと都内の私立高校の受験より早い受験日だった市川学園東工大付属の2校も受験に慣れるための度胸試しで受けています。この2校は合格していますが最初から入学するつもりはなかったので今回の話からは除外します。

さて、都立11群と言われても東京の人でそれなりの年配の人でないと何を言っているのかわからないと思うので当時の都立高校の状況を説明します。

まずこの当時、都立高校を受験する際は住んでいる地域の学区の中の高校しか受けられません。都内全域は9つの学区に分けてあり私の住んでいた場所は第一学区と言われ千代田区、港区、品川区、大田区がこの第一学区に該当しました。

さらに、都立高校の受験には群制度というものが導入されていました。

第一学区の中にある都立高校をいくつかの群という名前で二校か三校で一つの群をつくります。第一学区の中には6つの群がありこの中から受験する群を選びます。

11群が日比谷、九段、三田 12群が赤坂、城南、八潮 13群が大崎、南、雪谷 14群が小山台、田園調布 15群が大森、羽田 91群が一橋、忍岡、竹台

第一学区の中では11群が一番難しい群になります。

問題はこの後なんです、11群を受けた私はあくまでも11群を受けたので個別の高校の選択は一切していないのです。都立高校に合格したのは11群であって合格発表の日に初めてどこの高校に合格したのかがわかるのです。

日比谷になるのか九段になるのか三田になるのかは私たちが知らない所で抽選が行われ、合格発表の時に合否と、どこの高校になったのかがわかるシステムだったのです。

何でこんなシステムになったかと言えば、ずばり日比谷高校を潰すためです。

私が小学校の低学年くらいまでの当時の東大合格者の上位を占めていた高校は日比谷高校をはじめ西、戸山、新宿、小石川、両国などの都立高校でした。東大合格の上位を一部の都立高校が独占していたため当時の都教育委員会は受験戦争が過熱している原因として名門都立高校への希望者が殺到しているためと考え、このような事態を抑えるため、学校群制度を採用したと言われています。この学校群制度の導入により名門都立高校は一気に大学合格実績を落としていくことになります。特に日比谷高校は学校群が導入される前は200人近くの東大合格者を出しており東大合格者連続日本一を続けており日本の高校における絶対王者に君臨していたのですが私が高校受験する頃は東大合格が30人くらいへと激減していました、さらにその20年後にはとうとう東大合格1人までになりましたが石原都知事時代の改革で再び盛り返し現在は東大合格者50~60人くらいまで盛り返してきています。

まあ長い都立高校の学校群の話をしましたが、この学校群制度によって私は悩んだのです。

中学3年の時、学校内での順位や模擬試験等により、まあだいたいどのくらいの高校が受かるのかがわかってきます。

私は自分の成績から考えて慶応日吉、慶応志木、早稲田高等学院のどこかは受かるだろうと思っていました。都立の選択は迷わず11群です。11群は絶対に受かると思っていました。

当時の11群の滑り止めとして海城と城北を受ける生徒が多かったと記憶しています。

しかし城北の受験日は早稲田高等学院とかぶっていたので城北の受験は全く考えなかった。問題は海城の受験日だった。早慶にこだわった私は海城と受験日が重なる早稲田実業を選択したのです。

担任は早慶と11群だけだと滑り止めがないので早実をやめて海城にするか、早稲田高等学院をやめて城北を受けるようにすすめてきましたが、都立は絶対に受かるだろうと思って強気の受験にしました。

早実以外の早慶付属高校は早大、慶応大への進学は、ほぼ100%でしたが当時の早実は早稲田への進学率は7~8割だったので、何とか慶応日吉、志木、早稲田高等学院に合格するぞと思っていました。

では都立高校については、どう考えていたかと言うと、慶応日吉、志木、早稲田高等学院に合格した場合はそっちに進む。もし早実しか合格しなかった場合、九段高校か三田高校になった場合は早実に進む。ここまでは決めていたんです。

唯一決めていなかったのが早実と日比谷が残ったパターンだったのです。

都立は日比谷になる確率は三分の一だったのでまあ日比谷にならない可能性のほうが高かったのと、日吉、志木、学院のどこかには受かるだろうと考えていたので、このパターンはあまり真剣に考えていなかったんです。

しかし、現実はまさに唯一考えていなかった、このパターンになってしまったのです。

クラスメートの中には慶応や早稲田高等学院に合格したけど、それを蹴っ飛ばして日比谷を選んだ友達が何人もいたんです。彼らは確実な早慶よりも東大受験に挑むと決めたんです。当時の日比谷はくさっても鯛でした東大へは30人くらい。早慶にも百人くらい合格者をだしていました。友達のF君が自分と一緒に日比谷に行こうと俺を説得していたことをよく覚えています。

家では父親が日比谷に行けと言いました。やはり私の父の世代は栄光の日比谷のイメージしかないんです。母は大学受験は大変だから早実にいって確実に早稲田に進んだ方が良いと言います。

迷った私は学校で職員室に行き担任に相談すると日比谷に行くことを薦めると言ったのですが、それを聞いていた隣に座っていた先生が私の担任に「先生何を言ってるんですが、私なら絶対に早実を薦める」と口をはさんできたのです。

家でも学校でも、みんな意見が割れていてどうしていいのか、自分でもわからなくなり始めて悩みました。俺はどっちを選ぶべきなのか、今人生の岐路に立っていると。

高校受験は勉強開始が遅かったし勉強時間も少なかったから日比谷でまじめに勉強したらもしかしたら東大に行けるんじゃないかって、うぬぼれもありました。

都立高校の入学手続きの期限まではまだ数日の時間がありましたが、考えても考えても堂々巡りになってしまい、本当に悩んでいたら。突然、日比谷高校から電報が来たんです、入学手続きの期限を明日までに変更するという内容でした。

関ケ原の戦いで松尾山にいる小早川秀秋の心境です、家康につくか石田光成につくか迷っていたら、そこに家康から鉄砲を撃ち込まれたの一緒で、この電報であっせた私は決断します。翌日、親に日比谷に決めたと言って、一人で日比谷高校に行き入学の手続きをしてきました。普通ならこれで決まりですよね。

あの当時の私は日比谷への入学手続きを済ませた後も、まだ迷いに迷っていたんです。うだうだと一睡もせずに考えぬいたあげく、なんと翌日にまた日比谷高校に行き入学辞退の手続きをとったのです。本当、決断がつかなかったんです、日比谷高校の校門を出て赤坂見附駅までの坂道を下って歩いている時、自分が情けなかったなあ。大学受験を回避して楽な道を選んだ自分が。

迷いに迷って戦いを避けてしまった、自分に負けたようなそんな気分でした。

だから私は早実への入学は心晴れての入学ではありませんでした。

そもそも早慶両方受かったら、ペンのマークの校章をつけた慶応ボーイになりたかったんですよ、慶応の校章をつけた学ランを着て高校生活を満喫するイメージは出来上がっていたんです。そうなっていたら、また人生は相当変わっていた気がします。

まあ現実は一敗地に塗れるで不合格だったわけですから、そこはしかたありません。

問題はその後の選択ですよね。

日比谷に合格が決まってから辞退までの一週間だったか2週間だったかよく覚えていませんが、少し大げさですが自分で自分の人生の選択というものを初めてした最初の経験になりました。

大人になるにしたがい、人生は選択の連続になっていきます。

違う道を選択した場合は人生はどう変わっていったんでしょう。

今まで歩んできた人生に不満があるわけじゃないけれど、もしあの時に戻れるなら今度は日比谷を選び大学受験に挑戦をしたいと思います。

でも人間そう簡単に変われるもんじゃないから、また同じことをしそうな気もします。

だとしたら、それが運命ってやつですかね。