ムットン調査団205(81、危険な高校の体育祭)

各位

今日は高校の体育祭について話します。

10年くらい前に、自分の子どもの都立高校の体育祭を見に行った時、騎馬戦で男子は全員上半身裸でした。多分旧府立六中の伝統なのかもしれません。第二校歌「六中健児の歌」もずっと歌われて続けています。

騎馬戦もそれなりに白熱していたが、まあ可愛いもんでした。

私が早実の時に経験した体育祭とくらべると。

当時の早実は毎年、秋になると野球部のグランドがある武蔵関で体育祭を行っていました。

まあまあエキサイトするのが騎馬戦。上に乗った者どうし、まじで殴りあってるし、下でも足でマジ蹴り。軽い打撲、擦り傷、口が切れる等けが人続出、怪我したくなければひたすら逃げまくるしかない。

まさに、逃げるが勝ちの騎馬戦。

しかし何といっても、あの恐怖の棒倒しだけは忘れません。

あれは、競技ではありません。学校公認のクラス対抗の殴り合いです。

スタートの合図で走ってくるさまは映画クローズそのもの。

まず、守る場合ですが。相手はよじ登りにくるなら、乗せないように引きずり降ろせばいいのですが、相手側は最初から飛び蹴りで守ってる生徒そのものに、蹴りを入れに飛び込んでくる。

守る側も受けるだけじゃ、ボコられるから相手が来たらこちらも最初から蹴りを入れて応戦、お互い集団でマジ蹴りから始まるから次の瞬間お互い手でも殴り始める、こうなると棒を守るもの、倒そうとするもの、棒は関係なくそこらじゅうで殴りあっているもの、ただの乱闘状態、見てる連中は大いに盛り上り、もっとやれとはやし立てる。

毎年の恒例なので先生も止めない。時間になればいくつかの棒は倒れているから、棒倒しという競技はここで終わるのだが、エキサイトしたもの同士の個人的な殴り合いが、競技が終わっても、しばらく続く。そして当然、先生を含め誰も止めにはいらない。

これも、いつしか終わるから不思議なもんです。この競技の後は大なり小なり体操着に血が着くなど騎馬戦の比ではない怪我人がたくさんでますが、まあ毎年の事ですから何もなかったように終わります。

この学校は喧嘩が強い奴やスポーツ命のキン肉マン等がたくさんいるので、見てるだけなら良いのですが、自分のクラスの番になったら責める場合も守る場合も、とにかく怪我をしないように気を付けながら、個人戦(相手とタイマンのただの殴り合い)はしないで、とにかく集団戦の中で無事に生き抜くことが求められます。

そもそも、この学校は当時、何であんなに喧嘩が多かったんだろう?喧嘩は日常茶飯事のように行われていたけど学校としては荒れていたわけではなかったと思う。

入学した頃は、なんで早実はこんなに荒っぽいのか不思議でした。

私が高校に入った後、年配の先生の話を聞いて納得しました。

科学の先生が昔の早実についていろいろと教えてくれたんです。

その先生の話し方がそもそも、落語調になっている訳、それは昔授業は誰も聞いてくれないので、少しでも話を聞いてもらいたくて工夫をした結果、話し方が落語調になったとのこと。

・授業中に(ドス)を机に刺してる生徒もいたそうです・・・恐ろしい

飯田橋で抗争のためにドスなどを持った早実の生徒が集まっていると警察から通報があり、先生達全員で飛んで行って警察と一緒になって解散させた・・・出入りがよくあったそうです・・やくざの学校か

・その昔、京都へ修学旅行に行った時、他校の生徒達との大乱闘があり、それ以来修学旅行は禁止・・確かに私が早実生の時に修学旅行は禁止のままだった。

・応援団は一年中問題を起こしていたので、団は解散のまま・・・確かに私のいた時、応援団ではなく応援委員会という生徒会組織のような位置付けだった。野球の応援スタイルは早稲田大学の応援スタイルと全く同じ(紺碧の空、コンバットマーチ等)内容は応援団と同じでしたが、各クラスから応援委員会に入りたいと希望があった場合担任の許可を取ってからでないと入れないようにして完全に学校の管理下に置いていた、かつての不良の中の不良のたまり場、応援団にならないように注意をしているとの事。

この超不良高校が早稲田大学の係属校になり校長はずっと早稲田大学教育学部の学部長が兼務し7割の生徒が早稲田大学に進む進学校に大変身をしたのだが(現在は全員早稲田大学に進学出来る)、脈々と受け継がれていた早実のDNAはそう簡単には消えないで、あのカオスのような学校になっていたんだと思う。

真面目な奴と不良とスポーツマンが入り乱れていた。校舎の中はごみだらけ、すぐに喧嘩が始まる、不良学校。でも女子高生には早実はすごく人気があったんです。当時雑誌で都内ナンパ校No1にも選ばれた遊び人の学校でもありました。

硬派でもあり軟派でもあった学校、みんな利口でもあったし馬鹿でもあった。

そんな古き良き?伝統の早実でしたが今では早実発祥の地、早稲田鶴巻町を離れ国分寺に移転し、まるで別の学校へと変わってしまった。

国分寺に移って歴代理事長は早大の総長が兼務、早実は男子校から共学に変わった。さらに小学校まで併設しており、慶應の幼稚舎か早実の初等部かと言われるような学校に変身をしている。

20年くらい前、早実初等部に合格した親は入学する際に入学金や授業料で初年度150万、次年度以降も毎年100万以上かかるのに、さらに350万円の寄付を強制的に入学者全員に求めていたことがマスコミに漏れて問題になったりしている。

当時の早実も不良は多かったがカテゴリーは私立の進学校なので、私の周りにも親がかなりの金持ちだとか、上場企業の役員とかたくさんいた。

この学校にいた頃はお坊ちゃんなどという言葉から一番遠くにあった学校に通っていた気がしてたんだけど。金持ちの不良学校だったのかな。

あの汚れた教室、すぐに起きる喧嘩、油断していれば何でも盗まれる、まるで映画クローズにでくるような不良高校。

勉強、スポーツ、喧嘩、女、友情、煙草、酒、青春の全てが凝縮されていたように思える

振り返ってみると実に面白い学校だった。

入学する時、あれほど嫌っていた学校だったのに、卒業する時には我が愛すべき母校に変わっていた。

慶応ボーイになるはずだったのに、その対極に位置するこの学校に入り私は何かが変わったと思う。